日本は憲法学者の独裁国家なのか?


朝まで生でやっている討論番組などに良く出ている、ある憲法学者がこんな事を言っていました。

「憲法の内容を国語通りの意味に捉えるのはけしからん。もしも国語どおりのままの解釈が正しいのならば、憲法学者など必要ない。正しい解釈は我々憲法学者が考えるのだ」、と。

更には、

「憲法の解釈というのはプロのテクニックで、黒い物も白く出来てしまう」

他の出演者が何も突っ込まないのが私には気持ちが悪かったのですが、皆さんは何を思いましたか?
私は文系の人らに政治を任せるのは怖いと思いました。
日本国憲法の良し悪しやイデオロギーなどの論議は一旦置いておいて、ここでは純粋に論理的に思考してみましょう。

日本国は“立憲民主主義”ということになっていますね? そんな様な名前の政党もありますしね。
では立憲民主主義とは何なのでしょうか? そんな事から思考を進めてみましょうか。

まずはじめに、日本が法治国家であることは同意が取れると思います。
法治国家とは、法によって行政や司法が運営される国のことでしょう。
実際に裁判では法によって裁かれますし、法に書かれていないことで捕まったり投獄されることは有りません。
(だから”法の抜け穴”なんて言葉がありますね)

法治国家ではない国とは、例えば”人治国家”の様なものです。これは王様や独裁者などの権力を持った個人が、法に基づくのではなく、自分の気分や都合によって独断で好きなように政治を行ったり裁判を行ったりするものです。
まあ日本は確実に法治国家の部類に入るでしょう。道徳や倫理的にどんなに悪いことをしても、それを裁く法がなければ逮捕すらされないほどです。

では法律というものは、誰が誰に対して施行するものでしょう?
これは“国家が国民に対して施行するもの”です。
国家というのは、政府と言っても良いですね。まあ警察や裁判所、公官庁など、公務員から編成される組織は全て国家側と言えるでしょう。
実際に法律は国会議員によって作られ(立法)、政府によって運営されます。
言い方を変えれば、法律というのは“国家が国民を縛る”ことが出来るものです。

ですが日本は民主主義なので、実際に最も権力を持っているのは国民です。
これは学校で習う“主権在民”ってやつですね。なので実際に、国家側のトップの人間である国会議員を選ぶのは国民ですね。
つまり主権者である国民が自分の代理として政治をする人、文字通り“代議士”に、ある一定期間、主権を預けるわけです。
ある一定期間とは、もちろん次の選挙までですね。

そして一定期間、主権を預けると言っても権限が無制限なわけではありません。国家には一つだけ守らなければならない決まりが有って、全てはあくまで“憲法の範囲の中で”というものです。
当然、法律を作るときも憲法に反するものは作ってはいけません。司法も行政も同様に憲法に反してはいけません。
つまり国家側を主権者である国民側が縛る、唯一の規則こそが憲法なわけです。憲法は国民に対して施行し、国民を縛ることも出来る“法律”とはちょうど逆なのですよ。

私の理解では、これが立憲民主主義の大雑把な解釈です。多少違う意見の人もいるかも知れませんが、まあそれほど異なってはいないでしょう。

要するに立憲民主主義の国では、権力を持つ国家を縛る事が出来る唯一のもの、別の言い方をすれば国家よりも上にある唯一の規則である憲法こそが、最も力を持っているとも言えるでしょう。

ではその憲法の更に上に、国民に選ばれたわけでもない訳の分からない人が居て、憲法の内容を好き勝手に変えられるとしたらどうでしょうか? そうなると論理的に日本はその訳の分からない人による人治国家になってしまします。
ところが自称“憲法学者”という人たちは、実際に上記のようなことを言っていて、つまり自分が憲法の上位に居ると言っているのですよ。

そもそも、憲法というものは法律と比べてどうしてあんなに分かりやすい文章で書かれていると思いますか?
それは、主権者である国民が国家を縛るためには、憲法の内容が理解できなくてはいけないからです。
つまり、義務教育を終えた日本国民ならば全ての人が理解できるように書かれているのが憲法なのですよ。
逆に法律は、弁護士や検事、裁判官などの超難解な司法試験に合格した人たち、いわゆる法曹界の人たちが理解できればよいのです。実際に扱うのは専門家なわけですからね。

でも憲法だけは違うのです。憲法は義務教育を終えた国民が、国語通りの意味に解釈して、それが正しくなくてはならないのです。
憲法学者と呼ばれる人たちが勝手に一般常識とかけ離れた解釈をしてはいけないのですよ。
そもそも憲法学者の仕事が憲法の解釈を決める事だと思っている時点で、立憲民主主義が何もわかっていないのです。

この様に原理原則に則って考えると、始めに書いた憲法学者の言葉がいかにおかしいかがわかるはずです。
彼らの言葉は、憲法学者が常に憲法の更に上位に居て好きにその解釈を変えられ、もしそれが国民のマジョリティーの解釈とかけ離れていたとしも正しいと言っているのですよ。
しかも実際に、しばしば国会に憲法学者らを招いて、政府が解釈の意見を取り入れているのです。(上記の憲法学者も中心的な人物として入っていました)

つまり論理的に考えると、日本は憲法学者による独裁国家になってしまいます。
私には文系の人たちの思考回路が良くわからないのですが、誰もこの様なツッコミを入れません。

ちなみに憲法の解釈としていつも問題になるのは憲法第九条ですね。
私はこれについて特定のイデオロギーは持っていませんが、理系的思考を知るためにこれを例として、私だったらどうするかを考えてみましょう。

御存知の通り、第九条は以下の二項からなります。
いつも問題になる第二項はとても優しい文章ですね。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

まさに義務教育を終えた国民ならば、誰でもその言わんとする所は理解できる文章です。
国語的に難しいところなど無いと思いますよね。

そしてこの第二項ですが、これは軍隊を持ってはいけないし、交戦権も認めないと捉えられます。
要するに第二項が言っていることは、日本は自衛隊も持ってはいけないし、戦争をする権利も無いというものです。

これを憲法学者や政府は、「自衛戦争のための軍隊は持っていいし、自衛のための戦争はしても良い」という風に解釈しています。
これは論理的に無茶苦茶な解釈です。芦田修正もクソもありません(失礼!)。
芦田修正とは主に“前項の目的を達するため”の部分を指し、前項の目的とは侵略戦争をしないことであるから、自衛のための軍隊や戦争は含まれないというのが憲法学者らの言い分です。

???

ではここである例を考えましょう。
ある中学校の校則に、

1,中学生は学校では勉強に集中するため、SNSやYouTubeを見てはいけない。
2,1の目的を達成するため、生徒は絶対にスマートフォンを学校に持ってきてはいけない。

とだけ書いてあるとしましょう。
ではSNSやYouTube以外のことに使うためならば、生徒が学校にスマートフォンを持ってきて使っていても校則違反ではなく、先生は注意しないのですか?

こんなものは校則違反として注意するに決まっています。これが社会の常識なのです。
その規則を作った理由や目的が何であれ、禁止なものは禁止なのですよ。

つまり私の考えはこうです。
憲法第九条は国語通りに、自衛隊も戦争も禁止していると解釈すべき。
憲法学者など一部の人により、

それ以外の解釈が出来たとしても、するべきではない。

憲法の中でもこれほど優しい文章の意味が一般常識と全く異なるとすると、国民は憲法を理解することは不可能だと諦めてしまいます。
そうなれば国民が国家を縛ることなど出来ません。つまり立憲民主主義の終わりです。

では私は自衛隊も自衛戦争も反対かと言われると、賛成です。
ここでよく「そんなの矛盾している」などと言う人が居るのですが、そうでは有りません。

憲法第九条と自衛隊と自衛戦争について、もし私が総理大臣だったらこう答えます。

国家の最大の責務は大きく分けて2つある。
それは国民の生命と安全を守ることと、憲法を遵守すること。
ところがこの2つが二律背反の関係になっていて、両方を同時に守ることは不可能である。
よって政府は国民を守らないか、憲法を守らないかのどちらかの選択をする必要が有る。
私は国民を守ることを優先する。よって憲法は第九条に限り、無視する。
願わくば、両方を守れるように改憲を行いたい。


以上、終了。

これで憲法の解釈論議なんてものは起きませんし、憲法学者の出番もありません。
更にこの選択に反対する人(憲法を守って国民を守るなという人)は少数派でしょう。

こうすれば日本は論理的に見事な立憲民主主義です。今のままでは“憲法学者民主主義”です。
もう一度言いますが、これはイデオロギーとは関係ありません。純粋な論理です。


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