仏教と釈迦の教えは別物?


必要があって、仏教の話を軽く挟ませていただきます。

私も仏教について専門的に学んだわけではありませんが、おそらく平均的な日本人と同等程度以上には知っていると思っています。
( もし仏教を完全に理解しようと思ったら恐らくそのボリュームは生涯を費やす程だと思いますので、一般人は要点だけの理解で良いと考えています)

仏教といえば、その伝来の歴史や様々な宗派の開祖などを義務教育でも習うので、我々日本人にとっては最も身近な宗教ではないでしょうか?
特に自分が仏教徒である事を意識していなくとも、多くの方が正月にお寺に初詣に行ったり、身内が亡くなればお葬式にお坊さんを呼んでお経をあげてもらったりすることでしょう。

しかしながら仏教の中身については、普通の日本人ってどれくらい知っているでしょうか?
私は仏教というのは日本人にとって最も身近であると同時に、最も知られていない宗教ではないかと考えています。
むしろキリスト教や日本神道の方が誤解なく中身を知っているのではないかと思っているほどです。

”仏教”という名前は、文字通りに“仏陀(ブッダ)の教え”という意味だと思います。
そして仏陀というのはどの宗派に於いても”釈迦(シャカ)”を表わします。釈迦以外にも悟った人のことを仏陀と呼ぶ宗派もあるようですが、どの宗派であっても釈迦は必ず仏陀になります。
つまり仏教の定義とは“釈迦の教え”という事になるでしょう。

しかしながら実際の釈迦は神でもなければ宗教家でもなく、それどころか宗教の開祖でもないというのが私の理解です。
釈迦は東洋哲学(インド哲学)を大きく前進させた“哲学者”だとするのがきっと正確でしょう。

はじめに言っておきますが、私は昔から現在までずっと日本で主流の仏教(大乗仏教)もとても完成された宗教であると思っているし、敬意も持っています。またこれらは他の宗教と同様に、多くの人を幸せにする力も持っていることでしょう。
それを踏まえた上で、こう言いましょう。

だけど釈迦の教えとは別物である。

大乗仏教は釈迦のオリジナルの教えが日本に入ってくる経路にて、インドのバラモン教(現ヒンドゥー教)や中国の道教やらの教えが付け加えられたり改ざんされたりし、一部オリジナルの教えも残ってはいるものの、はっきり言ってアレンジしすぎて原曲が分からなくなった音楽(笑)の様な状態となっているというのが私の解釈です。
また日本に於いても最澄や空海の様な色んなお坊さん達がアレンジして様々な宗派が生まれましたね。

しかしながらここでは、釈迦のオリジナルの教えだと私が考えるものだけを扱うつもりです。
また本サイトで言う“仏教”とは、基本的には釈迦のオリジナルの教えだけを指すことにしますね。

そして釈迦のオリジナルの教えだけを考えると、私には釈迦が2600年前の物理学者の様に見えるのです。
本来の仏教というのは極めて論理的な教えであり、スピリチャル系や霊的なものは一切扱っていません。
故に例えば死後の話は扱わないし、神や仏の様な超越者についても一切扱っていません。
むしろ釈迦は、生まれ変わり(輪廻転生)や死後の世界、そして神の様な”超越者”の存在も否定していたとされています。
つまり分からないことには言及しないという、現在の科学のスタンスそのままなのですよ。


さて、ここから先は”仏教の小話的”な乗りで読んで下さいね。何度も言いますが、現在の日本の仏教(大乗仏教)を否定しているわけではないのでそこは理解の程を宜しくお願います。
またこの先の内容は私の個人的な意見と言うよりは、色んな所で学んだものというイメージです。

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もともと日本に伝わって来た仏教は、大乗仏教と呼ばれるものです。
でも大乗仏教って、意外と慣用句ではありませんよね?
大乗というのは“多くの人を救う”という意味です。

もともと釈迦は、厳しい修行の末に座禅と瞑想によって悟りを開いたとされています。
そして悟った後に釈迦が説いていた教えはあくまで“人が生きている間の話”だけであって、死後の話や輪廻の話は一切していません
実際に釈迦は「人は死んだらどうなるのですか?」と尋ねた弟子にこう答えたそうです。

「それは死んでみないと分からない。そんなことよりも、人生は短いのだから、死後のことなんかを考えているうちにあっという間に終わってしまいますよ」

つまり釈迦は死後の世界を否定したというより、「分からないことを考えるのは無駄だ」と言ってやんわりと弟子に考えることをやめさせたわけですね。
ですが日本の仏教の殆どは死後の世界の話をしていますね。輪廻転生やら天界的なものやら地獄的なものやら……。これは釈迦の話を完全に無視しているものでしょう。

ついでに言うなら釈迦は、「人が死んだらお坊さんを呼んでお経を唱えてもらうと成仏できる」ようなことは一言も言っていません。というより、お経自体が釈迦の死後に弟子らによって書かれたものらしいです。
釈迦の説法は対機説法(相手によって内容をカスタマイズする)が基本だったので、死ぬ直前まで自分の教えを文字にすることを認めていなかったそうです。
また自らの死期を悟って弟子たちに自分の教えを文字に残すことを許可した際にも、必ず文語ではなく口語で書くようにと強く指示したそうです。

釈迦はあくまで権威的なものを嫌い、一般人の理解のしやすさを求めたのですよ。
「いくら高度なことを書いても一部の人しか理解できないのであれば何の意味もない」というポリシーだったようですね。

そして釈迦は生涯を通じて自分が神などの超越者だとは一言も言っていません。というよりも、人であることが当たり前過ぎて尋ねる人も居なかったのでしょう。
そして最期もキノコにあたって食中毒で死ぬなど極めて人間的であり、死後も復活したような話は一切ありません。
釈迦はごく普通の人間として生まれ、生き、そして死んだのですよ。
他の多くの宗教に神や死後の話が出てくるのに対し、釈迦はあくまで生きている間の人間の話しかしていません。なので宗教家と言うよりも哲学者と考えた方がしっくり来るのです。

多くを学び、考え、修行をすることで救われるというのが本来の仏教のあり方です。
実際に釈迦もそうして悟りました。
その様に出家して修行した人だけが救われるという教えは今でも上座部仏教(小乗仏教)という形で存在しますが、大乗仏教と比べると今一人気が出ませんでした。
上座部仏教がブレークしなかった理由は単純に、その行程がとても面倒くさいからです(笑)。

いつの時代も一般大衆は面倒くさがりで、真面目に勉強したり努力することが大っ嫌いです。
例えば現代に於いてもダイエット法がこれ程たくさん出ているのは、“食事制限と運動”という必ず痩せられるとても単純なことが出来ない人が殆どだからですよね?
つまり、出来るだけ楽して痩せたいのが大衆なのです(笑)。

それと同様にブレークしたのが大乗仏教でした。これは何の勉強も修行もしなくて良い宗教です。
なので「救われたい、だけどそのための努力はしたくない」という多数派の人達に見事にヒットしたのですよ。
例えば、ただ「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と唱えるだけで救われるという様な、まあ多くの横着者にとってはとても楽な教えなのです。

因みに上記の“南無”というのは、“帰依する”という意味です。
つまりこのお経は「阿弥陀仏に帰依します」と唱えていることになりますね。
ではこの阿弥陀仏とは一体何者なのでしょうか??

阿弥陀仏とはこの宇宙ではなく、別の宇宙に現在生きている仏陀(悟りを開いた人)だとされています。
仏教では地球に次の仏陀が現れるのは50億年以上も先だとされていて、それまで待てないということで他の宇宙にいる仏陀に対して祈ることにしたのです。
まあ宇宙が複数有るという考え方自体は現在の物理学の説(マルチバース)と同じなので受け入れるとして、どうやって別の宇宙と交信するのでしょうか?
因みに物理学では他の宇宙とは一切情報のやりとりは出来ないとしています。

しかしながら阿弥陀仏というのは他の宇宙と交信する特別な力を持っている仏陀だそうで、故に我々の祈りを聞いてくれるという理屈です。
もちろん、宗教に科学的な理屈などは必要ありません。でもそうなると、阿弥陀仏は釈迦の様に悟りを開いた人というよりも、何だか一神教の神の様な存在に聞こえるのは私だけでしょうか?

この例の様に、超越的な存在を認めないとした釈迦とこの話は完全にぶつかってしまいますね。よって仏教も他の宗教と同様にどこかのポイントで、哲学から宗教に変化したのだと私は考えています。別にそれが悪いと言うつもりはありませんが……。

宗教というのはどれもそうですが、歴史的に時の権力者によって都合が良いように利用されてきたものです。よって長い時間の中でどうしても変質するのでしょう。


さて、長くなりましたが、故にここでは釈迦のオリジナルの教えのみを仏教として扱いますね。
仏教についての小話は、また時間を見つけて入れていこうと思います。


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