DaiGo氏の炎上発言について思うこと


これから雑談の項では、ブログ的に軽い時事ネタを扱っていこうと考えています。
今回は第一回目ですね。

今日は最近話題になっているメンタリストDaiGo氏の炎上発言について少し考察してみましょう。

DaiGo氏の発言の問題部分を一文にまとめると、「生活保護受給者やホームレスの命は無価値で、猫の命以下である」でしょうか。
DaiGo氏本人については既に反省して謝罪もしているようですね。それをいつまでも叩くのも私は賛成しかねるので、ここでは彼個人について触れるのは止めておきましょう。

上記の内容については、そもそも科学や論理で答えが出る物ではないため、やはり倫理や道徳に照らし合わせて「不適切だ」、というのが大方の意見ですかね。

生活保護受給者やホームレスなどの貧困者に対して、単に「邪魔だ」とか「生きている価値がない」と言ったり思ったりする人はたまに居るような気がしますし、恐らく海外にも居ると思われます。
日本でも実際に江戸時代以前には、飢饉が起きた際や貧しい地域では弱い者が見殺しにされたり、口減らしのために殺された赤ん坊も多く居たことでしょう。
“姥(うば)捨て山”は都市伝説だったようですが、似たようなものはあったかもしれません。

現代の日本は社会に余裕があるから、弱い人たちを救えるのもまた事実です。
なので貧困者に対する差別発言だけならば特に目新しい事もないし、口が滑ったと思える範疇かもしれません。
現代に於いては明らかに不適切だとしても、長い人類の歴史を見れば弱者や病人、貧困者が助けを得られず死ぬことはごく普通にあったことでした。

ですが彼の発言の中で私の気を引いたのは、

「(貧困の)人間の命の価値は猫の命以下だ」

と何度も言っている所でした。
かつては白人の命が有色人種の命よりも重いとされていた時代がありました。ですが、一般論として人と動物の命を比べる話は歴史的に聞いたことがありません。
これについて、皆さんはどう思いますか?

DaiGo氏のことは一旦置いておいて、今回は動物の命と人間の命について少し考えてみましょう。昔と違い現代に於いては、これはなかなか難しいテーマになりそうな気がします。

はじめに断っておくと、”人間の命と動物の命のどちらの価値が高いか”といった問いに対しては、科学の手順のみによって答えが出ることはないでしょう。ですがそう言ってしまっては思考が止まってしまうので、ここでは出来るところまで攻めてみましょう。

昨今ではペットを人間のように可愛がる人が多く居ますね。例えば犬も昔は庭で飼っていたものですが、今では室内で飼うのが当たり前です。また昨今は猫の人気も高いようですね。
そして今はペットが病気になると放置することなどなく、獣医に連れて行き(保険が効かないので)高額な治療をする人が多く居ます。医療費が数十万円、場合によっては100万円を大きく超えるケースも聞いたことがあります。

恐らくこれがペットではなく、所有する車の修理代だったとしたらきっと何も感じないかもしれませんが、動物の命を救う話であると色々なことを人間に想起させますね。
何せ世界にはそのペットに掛けるお金で助かる“人の命“がたくさんあるのですから。

因みにDaiGo氏は初期の頃には視聴者の反論に対し、「僕は多くの税金を払っているから、普通の人よりも間接的に多くのホームレスを助けている。逆にホームレスのために毎月3万円を全国民から徴収するという法律が出来たら、あなた達は賛成するのか?」と言っています。
なかなか痛いところを突いていますよね。ええ、恐らく国民の大多数は賛成しないでしょうし、払うことが任意ならば殆どの人は払わないと予想されます。
自分のペットを助けるためになら100万円でも払うとしても、ホームレスのためには誰もお金を払わないわけです。
となると多くの人はDaiGo氏のように、「ホームレスの命よりも猫の命の方が大切だ」と考えているのでしょうか?
当然、誰もそうは思っていないはずです。

因みにDaiGo氏は、税金でホームレスを助けるくらいなら猫を助けて欲しいと言ってましたね。ホームレスは邪魔だし臭いし害しかないけど、猫は癒やしてくれるからプラスになる、とのことです。
更にDaiGo氏は「ホームレスや生活保護受給者の中にも自分の努力不足が原因ではなく、(病気や環境などが原因で)本人に落ち度がない人も居る」と反論した視聴者に対し、こう答えていました。

「では(保健所で殺される)猫には落ち度があるのか?」

こうなるとなかなか論理的に反論するのが難しくなるでしょう。
この様に人間の命と動物の命を同列に扱っている時点で既にもう、この議論に答えは出ないのですよ。

あまり長くならないように途中はガサッと省略しますが、結局これらのDaiGo氏の発言に反論する方法は一つしかありません。
つまり、以下の前提を“是”とするのです。

生物の命の価値は平等ではなく、人間の命だけは特別に価値が高いとする。

つまり人間の命とそれ以外の生物の命の間にだけ、明確な線を引いて区別するのです。動物の中にさらに線を引いたり、人間の中にまた線を引くことは不可能です。言うまでもなく、これらは絶対にコンセンサスが得られず意見がまとまりません。
よって「人間の命だけは尊く大切で、それ以外の命は大切ではない」とするしかないのですよ。
それが論理的に正しいと言っているのではなく、それ以外の定義が出来ないのです。

もしも人間以外の生物の命も全て同等に大切だと定義すると、全ての人がベジタリアンになるしかありません。いえ、植物だって生命だと解釈するなら、人間は餓死するしかないでしょう。
よってある程度論理的にDaiGo氏に反論するとしたら、「猫の命には価値がないから落ち度がなくても殺して良く、ホームレスや生活保護受給者は人間なのでたとえ落ち度があったとしても命の価値が高いので助けるべき」となるでしょう。

因みに人間以外の動物も他種の生物の命など大切にしていません。自分が生きるためなら、平気で他種を殺したり食べたりします。猫だって何の落ち度もない鶏を襲って殺します(笑)。
つまり現代人がペットなど動物の命を大切に出来るのは、それだけ余裕があるからなのですよ。

動物の命について、思い出した話を一つ書きましょう。
私が子供の時代には、学校の道徳の授業で“子鹿物語”を習いました。
昔ですが子鹿物語は日曜日の夜にアニメもやっていましたね。

子鹿物語では主人公の少年が父が殺した雌鹿の子供である子鹿を拾って飼い、とても可愛がっていました。ですが子鹿は成長するとともに畑を荒らすようになりました。少年はフェンスなどを作って何とか畑を荒らさないように知恵を絞りますが、鹿はフェンスを軽々と乗り越えてしまい畑を荒らし続けました。
この物語は結局、少年の母が鹿を銃で撃つも急所を外し、少年が自分の手で苦しむ鹿にとどめを刺す、というお話です。
そして少年は最後に「僕はもう悲しまない。そう、僕はもう大人になったんだ」と言う台詞で終わります。
このお話は可愛がっていた子鹿を自ら殺すことで、少年が成長する様を描いているのです。
まあ簡単に言えば、物事の優先順位を学んだと言うことでしょうか。

でもこれって、今の日本の子供が見たらどう思うでしょうかねえ? 私は少々不安になります。
同様のシーンはアニメ、“アルプスの少女ハイジ”にもあります。人間は余裕があるときには動物を可愛がりますが、いざとなったら躊躇わずに殺します。そしてそれが是だと子供に教育します。
有史以来、人間と動物の間には明確な境が存在するのです。

少し余談を。
昨今ではスペインの伝統的な闘牛も反対運動が起き、日本の闘犬も風前の灯火っぽいですね。挙げ句の果てには、カエルの解剖も今は学校ではやらないそうです。
理由は全て、”残酷だから”でしょう。これが現代のムーブメントなのです。

ですがこのムーブメントの実情は、動物の苦痛や命を配慮しているのではなく、それを見る人間の側が苦痛を感じるからだと言うことを間違えてはいけません。
食肉のための屠殺や環境破壊による動物の苦痛や死滅、減少については、どれだけ失われる命の数が多くても人の目には見えないのでどうでも良いのです。
高級料理のフォアグラだってどのように作られているか知っていますか?

さて、話を戻しましょう。
私個人的には動物を人間と同様に扱う昨今の風潮については、いかがなものかと思います。
ペットの命を救うためにどれだけお金を掛けるのも自由ですが、それはあくまであなたの所有物を治して満足するためのお金であって、命は大切だから高いお金を掛けているわけではありません。そこを間違えると、論理が破綻してDaiGo氏の言うことに反論できなくなります。

こう決めておかないと、いつか子供が「大学進学を諦めるからペットの命を助けるために大金を掛けてあげて。だって大切な命を救うためなんだから!」と言い出したときに、親はどうやって説得できますか?

いくら可愛がっているペットであっても、動物は動物で人とは違います。これは人類が誕生したときからの価値観であり、世界共通の価値観です。
なので現代の日本人も、もう一度そこに立ち返ってみてはいかがでしょうか?


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