論理と感覚


人間の持つ思考方法には、大きく分けて二通りのアプローチがあります。
それは、論理的な思考と、感覚的(感情的)な思考です。

冷静になって論理的に考えたら明らかに怪しい話なのだけど、その人の顔や雰囲気が信用できそうだと思って金を出したら騙された、なんて話はよく聞く例でしょう。これはとても人間的な例です。
これも身近にある論理と感覚のせめぎ合いの例ですね。

当然ながら科学というのは論理的な思考のみを扱う学問です。しかしながらそれを扱うのが人間である限り、ときに感覚的、感情的なものが入りかけることも有ります。
そして昔から往々にして、この人間の感覚的なものと科学的(論理的)なものは異なり、そして対立してきました。
感覚的な思考というのは、感情的、あるいは常識的な思考とほぼ同意です。

例えば、大昔には地球の表面は平らだと考えられていました。つまりどこまで進んでも大地はずっと平らで、最後には“ここで終わり”という断崖絶壁のような場所があると考えられていました。
しかしながら、港を離れた船が沖に進むにつれて船全体が小さくなって見えなくなるのではなく、はじめに船の下の方が見えなくなり、最後にはマストのてっぺんだけが見える現象の説明はこれではつきません。ですが“地球が丸い”と仮定すると、この現象の説明は論理的に簡単についてしまいますね。
他にも井戸に差し込む日差しの角度が地域によって異なることも、地球が丸い事を論理的に示唆していたそうです。
ですが昔の人はこれらの観測結果を知りつつも、なかなか地球が丸いという考え方を受け入れることが出来なかったようです。
これは論理的にはいくら綺麗な説明であっても、感情的に受け入れられなかったのでしょう。

その他にも特に有名なものは、天動説と地動説の対立でしょう。
これも昔の人は地球は宇宙の中心にあり、太陽や月や星がその周りを回っていると考えていました。しかしながらそう仮定すると、例えば惑星の動きの不自然さが説明できません。
惑星はというのは、その文字が“惑う星”と名残を残していることからも分かるように、明らかに不自然な動きだったのですよ。
しかしながら回っているのは空ではなく地球だと仮定すると、惑星の動きがとても綺麗に説明がついてしまいます。ええ、本当に綺麗な円運動として。
これらのことからガリレオは地動説に確信を持っていたようですが、当時の世界には感覚的に全く受け入れられなかったのは有名なエピソードですね。

この手の話は物理の世界には沢山あります。もう細かい説明はしませんが、相対性理論もそうですし、量子力学もそうです。
「空間が歪んだり時間が伸びたり縮んだりする」や、「観測するまでは月はそこに居ない」などは、今でも受け入れられない人が多いのではないでしょうか??
どうやらこの世界というのは、我々人間の感覚的な理解とは異なる構造になっているように思えます。

そして私が言いたい最も重要なメッセージは以下です。

“人間の感覚と論理的な説明が相反したときに、人間の感覚の方が正しかったケースはない“


逆に言えば、論理的に綺麗な説明が出来る仮説はどんなに荒唐無稽に聞こえても、結果的に正しい。
これが科学と人類の歴史が示していることなのですよ。

上記の平らな地球の話や天動説の例のように、残念ながら人間の感覚的な思考というのは論理的な思考に比べると、かなりいい加減だということを歴史が証明しています。
よって、真実を知りたければどんなに感情的に受け入れにくくても、論理的に筋が通っているものを正しいと仮定してみる。
これが私のスタンスであり、科学の基本スタンスです。

本サイトもそのスタンスで行きますので、それをよく念頭に置いておいて下さいね。

 
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