ある日。


メイン項目に入る前にイントロダクションとして、少しだけ私の個人的な小史を書かせていただきます。

中学生までごく普通の少年だった私は、ある日、ある事をきっかけに、正に突然、あらゆる洗脳が解けてしまいました。
ええ、文字通り“あらゆる洗脳”から解かれたのです。
その日からずっと、今日までの思索の旅が続いてきたような気がします。
今回はその話を簡潔にしてみますので、少しの間お付き合いください。
 
さて、日本人が”洗脳”という言葉を聞いて真っ先に思いつくのは宗教かもしれませんが、私が解かれたのは宗教の洗脳ではありません。
始めに書いたとおりに私自身、一度も宗教に入信した事はありませんからね。

洗脳とは何も宗教や独裁国家の様に、洗脳する側に特定の人物が居るケースだけではありません。
細かく分類すれば数限りなくあるでしょうが、恐らく最も多くの人が体験する洗脳は“社会的洗脳”と呼ばれる物でしょう。
つまり、日本社会に於いて多くの大人たちが共有している価値観とでも言いましょうか。
一般に“文化”や“常識”と言われる物も、これらに含まれる事があるでしょう。

因みに“ある日”が訪れた当時、中学三年生だった私が無自覚のままに信仰していた価値観は、“幸福神話”と後に呼ばれる物でした。
その内容を一言で言えば「良い高校に行き、良い大学に行き、良い会社に就職すれば幸せになれる」というものです。
ここで言う“良い会社”とは、いわゆる大企業の事です。“良い大学”とは一流大学の事です。“良い高校”とは偏差値の高い高校の事です。

当時は親も学校の先生も、塾の先生も、親戚の人たちも、更には近所の人たちまでも、本当に大人は皆がそう言っていたのです。
なので小学校を卒業するまではろくに勉強なんかしていたかった私も、中学に入ってからは学区内で一番偏差値の高い高校を目指して、自分なりに一生懸命勉強していました。
小学生まで凡庸な成績だった私は親に頼んで塾にも行かせてもらい、部活終わりの疲れた体で夜遅くまで勉強していたものです。

何故なら当時の私は、他の多くの人が望むのと同じように、将来は幸せになりたいと思っていた少年の一人だったからです。
ですが中学生活も終盤に近づいて高校受験が迫る季節のある日に、“ある事”がきっかけであらゆる洗脳が解けてしまったのですよ。
“ある事”の内容については長くなるのでまたいつか改めて書く事にしましょう。

とにかく、これらの今まで大人が言っていた事に対して「本当にそうなのか?」と、はじめて心の底から疑問に思ってしまったのです。
一度、疑問を持ってしまうと、なかなかもう元には戻れません。「よくよく考えてみると、大人たちの言っていた事はどれもこれも根拠がないじゃん」と思い、後はまだ未熟な自分の頭でひたすら考える日々でした。
まあここまでなら私と同世代の人たちには良くある、ありふれた話でしょうか……。
 
ですが私が解かれたのは、学歴神話や大企業神話の様な浅い洗脳だけではありませんでした。
もう一度言いますが、“あらゆる洗脳”が解けてしまったのです。
具体的に言えば、それこそ「幸せとは本当は一体何なんだ?」から始まり、「そもそも人は生きなければならないのか?」といった具合の思索から始まりました。
そして「絶対的な“善悪”や“正誤”など存在するのか?」「有るとしたら誰が決めているのか? だって時代や国によってそんな物コロコロ変わるじゃないか」などといった事も考えました。

そしてやがて「青空は本当に青いのか?」「目の前の桜の木は本当に存在しているのか?」
「地球は本当に存在しているのか?」「鏡に映る姿は、本当に自分の姿なのか?」「どれもそう見えているだけではないのか?」
「全ての物質は原子から出来ているらしいが、本当なのか? 本当だとしたら、何故原子などというものが存在しているのか?」。
更には「これらを考えている自分の心も原子で出来ているのか?」と言った具合です。

これらの問いは、もしこの時代にそんな事を口にしようものなら「キチガイだ」と言われるような内容でした。

とにかく、その日から物の見方や感じ方、考え方が本質的に変わったのを覚えています。そして自分の中でまるでスイッチが切り替わる様にバチッと、子供から大人の脳に切り替わったと感じた瞬間でもありました。
 
皆さんはきっと、“洗脳から解かれる”というのは悪い事ではないと思うことでしょう。確かに私も洗脳から解かれる事自体は悪い事ではないと思っています。ですがそれは条件付きなのですよ。
もし洗脳から解かれてたとしても、その代わりとなる価値観や世界観が存在していれば、確かに悪い方向には行かない事が多いでしょう。
ですが当時の私は、今まで信じていた物に代わる価値観も世界観も持っていませんでした。そしてそれは自分が若く未熟だからだと当時の私は考えました。

やがて当然のように私は、大人たちにあらゆる質問をぶつけまくりました。まあ頭がおかしいと思われない範囲で、ですが。
「どうして良い大学に行かないといけないの? どうして良い会社に入ると幸せになれるの? そもそも幸せって何なの? 大学を出てなくても餓死してる人なんて居ないよ。って言うか、そもそも、どうして人は生きないといけないの?」
当時の私は当然、大人たちはそれらの答えを全て知っていると思っていたのです。だって長く生きているわけですから、私の通る道は既に昔にきっと通っているはずです。

しかしながらどの大人も私の質問に対し、この様な言葉を返しました。
「それは君も大人になれば分かるよ」。挙げ句の果てには「そんな事を考えるのは受験勉強をしたくないから、逃げているだけだ」、「そういう問題はテストに出ない」。
当時の私は、大人たちはそろいも揃って私に意地悪をしているのだと思いました。つまり、答えを知っているのにわざと教えてくれないのだと。
だって動物ならまだしも、人間の大人が生きる理由も知らずに生きているなんて、狂気の沙汰で有り得ないと思っていたのです。
ですが後に、それは意地悪をしていたのではなくて大人たちも答えを知らないのだと私は解釈しました。
 
楽になるために何度も私はもう一度、洗脳されていた自分に戻ろうとしました。ですが一度解けてしまった洗脳にまた戻ることは、はじめて洗脳されるよりも遙かに難しかったのです。
よってある時点で私はその選択肢を捨てました。そして、その代わりとなる価値観や世界観を大人も知らないのなら、自分で作るしかないと考えたのです。

そう考える頃には、私は高校に入学していました。ですがトップクラスの進学校に入学しておきながら私は、「何の根拠もない」と言って今まであれだけ頑張ってきた勉強をスパッと止めてしまったのです。
ですがその後の時間はとにかく苦しいだけでした。自分が信じる価値観や世界観が無いまま生きるという事が、これほどまでに辛く苦しいものなのかと心底から思ったものです。
 
そして15歳なりに散々考えた私は、子供の頃から親しんでいたある価値観にすがる事にしました。幸福神話や大人たちの言葉は信じられなくとも、一つだけ自分にも信じられる価値観が有ったのですよ。
たとえそれが完璧ではなくとも、またそれがいつか自分が本当に信じられる価値観や世界観に繋がっているのかどうかが分からなかったとしても、です。

その価値観こそが、“科学”でした。

子供の頃から親しんでいた事もあるかもしれませんが、どうやら私は科学との相性が良かったようです。
因みに高校時代には宗教(キリスト教)にも散々勧誘されましたが、私はどうも好きにはなれませんでした。
何故かって?
「だって、全部嘘じゃん!」
高校時代の私はそう思ったのです。
 
高校時代には学校の勉強は全くしていませんでしたが、代わりにとにかく科学の本を読み漁りました。科学の範疇ならば、あらゆる分野の本を、です。
そして当時の私は生物学も、化学も、その他の分野の科学も、「どうしてそうなるのか?」という疑問を突き詰めていくと、最後には必ず物理学の分野になる事を知ったのです。
つまり物理学こそが“キング・オブ科学”にして唯一、バカみたいな最終質問を受け付けてくれる学問である、との結論に至ったわけです。

論理として不完全である事は当時の私にも分かっていましたが、私は当面の生きる理由を“物理学を学んで自分の疑問の答えを見つけるため”としたのです。当面とはいえ、生きる理由を見つけた私は少しだけ気が楽になりました。
そしてその瞬間が、はじめて“自分の意思”で大学に進学する理由を見つけた時であり、同時にそのための受験勉強をする理由を見つけた時でした。
その時はもう三年生に進級する直前だったので、私も三年生になってようやく大学の受験勉強を始める事になりました。同級生から二年遅れて、中学三年以来の久しぶりの勉強です。
もともと地頭が悪くはなかったのか分かりませんが、遅れてスタートした割には勉強は出来るようになりました。特に物理は常にトップクラスでした。
 
さて、あまり話が長くならないようにこの辺にしておきましょう。(十分長いですが……(笑))
以上が、私が物理の道に入ろうと決意するまでの簡単な経緯です。
 
以来、途中で何度も寄り道と休憩をしながら、代わりとなる価値観と世界観を探し、そして考えてきました。
これから書く内容はその話であり、本サイトのメインテーマです。


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