宗教とは何なのか(前編)


私自信は宗教学を学んだことはありませんし何れの宗教に帰依しているわけでもないので、一般的な宗教の定義について語ることは宗教学者や宗教家らに任せておくとしましょう。
 
ここでは一般に定義されているものとは異なる、宗教についての私の個人的な分析と解釈を書いてみることにします。
 
今までに物理学が何を目指して研究されているかについて書きましたね。
物理学の最終目的は、“この宇宙の全ての法則を解明することである”と言えばおおよそ間違いではなく、きっと反論する物理学者も居ないことでしょう。そしてそのための具体的な理論が超統一理論であったり、その候補である超弦理論やM理論ということでした。
この物理学の最終目的を一般的な言葉で言うならば、“真理の解明“だと言えるでしょうか。

“真理”という言葉は、これまた宗教っぽくて胡散臭いと思う人も居るかもしれませんが、この言葉自体はとてもまっとうなものです。
この言葉の意味を検索したり辞書で引くと色々な説明が出てきますが、例えば”Google日本語辞書”によると

“本当の事。間違いでない道理。正当な知識内容”

の様な意味とされているようです。でもこの説明では抽象的過ぎて今ひとつピンとこないですかね?
もし“真理”という言葉の意味を私が定義するとしたら、

“人間が持つ根源的な疑問に対する正しい答え。この世界と宇宙の理(ことわり)。”

といった感じですが、いかがでしょうか?
取り敢えず本記事では”真理”という言葉を上記の意味として使うことにしましょう。
 
では本題に入りましょう。
日本に住む一般的な日本人には信じられないかもしれませんが、宗教も物理学と同じように真理を目指しています。そして宗教を信じる人たちは、自分の信じる宗教こそが真理に続く道であると考えていることが多いのです。
もちろん、宗教の多くは既に真理に達したとは考えていません。なので宗教学者や宗教家らは新しく発見された聖典や経典などの資料を研究したり新しい解釈を考えるなどして、日夜真理を探究しているのですよ。そしてこのスタンスは物理学者と同じだと言っても、まあ大きくは間違っていないでしょう。
 
理解を助けるために、ここで真理というものを一つの”高い山の頂上”に例えてみましょう。
そして“真理の探究”を高い山のいただきを目指す登山に例えるならば、数多くある宗教というのはそれぞれが頂上を目指した

“登山ルート”

なのですよ。

例えて言うならそこにはキリスト教という名の“西側ルート”があり、仏教という名の“東側ルート”がある、といったイメージです。
これは他の宗教についても同様です。

図1 頂上へのルートは一つではない。


そしてここで最も重要なことは、

”どのルートも間違っていない”

ということです。
つまり自分の信じる宗教以外の宗教を否定することは、「相手の登山ルートは間違っている」と言っているようなものなのです。
しかしながら実際にはどちらも正しい。同じ頂上に到達できるのならば、そのルートに正解も不正解もありません。ヘリコプターで頂上に降りるルートだってアリでしょう。
実はどのルートも正しいのに、それを知らないが故に人は揉めたり争ったりするのだと私は考えています。
ではなぜ正しいルートが一つではないことを皆は知らないのでしょうか?

それはまだどの宗教も頂上に達していないからです。

いえ、個人レベルで頂上に達した人はきっと今までに居たことでしょう。ですが宗教という体系全体としては、未だ到達してはいないのです。つまり頂上に立った事が無いから、他のルートも正しいことに誰も気づかないわけです。
この話はたとえ、一神教の宗教同士であってもそうなのですよ。

ではどんな新興宗教もカルトも全て正しいのかと思うかもしれませんが、一つだけそのルートが正しいかどうかを決める条件があります。
その条件とは、

”ただし、そのルートが頂上に繋がっていること”

です。
頂上に繋がっていない宗教は、恐らく真理とは別の山に登っているのでしょう。

少し具体的に言えば、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も仏教も、全ての教えの言葉は登頂するための手段に過ぎず、その“目的”は全て同じなのだと考えます。
その目的を彼らの言葉で言うならそれは“神に出会ったり神を感じること”であり、また仏教の言葉で言うなら“悟りを開くこと”です。

そしてこれらの目的の場所である頂上を一般的な言葉で言うなら、“真理を知ること”となるでしょう。

続く……。

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