なぜ科学を基礎とするのか?


これは本プロジェクトの極めて重要な点なので詳しく解説してみましょう。
信仰は宗教の専売特許ではないと言いましたが、現在の世界に於いて信仰の元になっている物の殆どが宗教であることも、これまた事実です。
 
そして信仰はその人のイデオロギーや理念、信念、価値観などの最も根源的な部分になっていることが多いはずです。
日本に住んでいるとあまり分からないかもしれませんが、世界の人々の殆どは何らかの神を信じています。
まあ時代と共に先進国では宗教を信じる人が減っているという話もありますが、それでも人間という生き物の信仰の基礎となっている物は、その殆どが今なお宗教なのですよ。
 
ではその宗教はいったい何に基づいて作られているのでしょうか? 何かの実験結果? 何かの方程式? 違いますね。
それを一言で言うならば、

“誰かに聞いた話”

だと考察出来ます。
例えば釈迦やキリストと直接話した人は現代には居ないし、神の声を聞くことが出来るのも“預言者”と呼ばれる一部の人だけです(とされています)。
つまり宗教とは”昔からの人々の言い伝えを信じることで成り立っている信仰”だと言えるでしょう。(まだ歴史の評価を経ていない新興宗教についてはここでは除きますね)
 
良く「宗教は信じることから始まり、科学は疑うことから始まる」なんて言いますが、まあこの言葉は的を射ているでしょうかね。
宗教という信仰は、”その教えをとにかく信じること”から始まるようです。そしてそのスタンスは別に間違っているわけではありません。
悪魔の証明ではないですが、その宗教が間違っていることもこれまた証明など出来ないと思われます。
よって信じることも信じないことも、ある意味どちらも正解だと言えるでしょう。

ですが一神教の宗教を信じる人の中の、全てではありませんが、ある一定の割合の人はそうは考えていません。
これは私自身が経験したことでもありますが、自分の信じる神(宗教)を信じている自分が正しくて、信じない人は間違っていると考える人が実際には居るのですよ。
それを言葉にするかどうかは置いておいて、本心ではそう思っている人がかなり多いと私の肌感覚では感じています。そしてそれは、信仰心が強い人ほどその傾向が強いと考えています。
“宗教”という信仰は、それ程までに強烈なパワーを持っているわけです。
 
そしてこの「自分の信じる宗教だけが正しく、それ以外は間違っている」と考える者同士は、しばしば揉め事を起こしますね。
世界史を見れば明らかなように、最悪なケースではそれが宗教戦争にまで発展します。特に一神教の宗教ではその性質上、争いが起きやすい構造になっているのは以前に書いたとおりです。
 
因みにカルトのイメージが強いためか、日本で神や宗教というとどうもダークなイメージや胡散臭いイメージがあるかもしれませんが、世界ではむしろ無神論者の方がマイナーです。その割合はおおよそ、LGBTの割合と同程度だとされる程にマイナーなのですよ。
なので世界のことを考えるならば、宗教の件は絶対に避けては通れないのです。
 
ここで一つ、思考実験をしてみましょう。題目の良し悪しや正誤は一旦置いて、純粋な思考実験を考えてみます。
もし異なる一神教の宗教を信じる者同士に同じ信仰を持たせようと考えたら、その信仰は何をベースにしている物が適していると思いますか?
既存の3大宗教でしょうか?
 
新興宗教と言われる比較的新しい宗教は日本にも世界にも数多くありますが、その殆どが既存の3大宗教を基礎にしていたり、枝分かれしていたり、派生している物ですね。完全に“無”から作った新興宗教はきっと少ないでしょう。
そしてこれら既存の宗教をベースにしている宗教に対しては、既に他の宗教を信じるマジョリティーが新たに信仰する傾向は現時点では一向に無いし、きっとこれからも無いでしょう。
 
ではもう一つ、私から尋ねます。人間が宗教の次に、もしくは宗教と同程度以上に強く信じている信仰はなんでしょうか?
この問いを換言するなら、

「人種も民族も宗教も国籍も文化も関係なく、全人類が信じている最大公約数の価値観とは何でしょうか?」

愛? もしかしたら、そう答える人も居るかもしれませんね。
ではその価値観の中でも、宗教の様に国や世代を超えて体系的に教えられ、そして伝えられているものとは?
多くの人は自覚していないかもしれませんが、それこそが

”科学”

なのです。

キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も、それ以外の宗教を信じる人であっても、同時に科学は信じているのですよ。
携帯電話で遠くの人と話が出来るのは、決して天使が声を運んでいるのではなく電波が伝えていることは、その人の信仰を問わず誰もが認め、そして信じていることでしょう。
「そんなことは当たり前だ」と思うかもしれませんが、自覚していなくとも、科学こそがその人のイデオロギーを問わず最も多くの人が同時に信じている価値観なのです。

では科学という、全ての人が信じている価値観があるというのになぜ多くの人が更に宗教を信じるのでしょうか?
答えは単純で、

人間が知りたいと願う疑問に科学は答えてくれないから

です。

例えば今までに書いてきたような、人は何のために生きるのか? 自分はなぜこの自分に生まれたのか? 自分は何をするべきなのか? 人類はなぜ存在しているのか? 宇宙はなぜ存在しているのか? 本当の幸福とは何なのか? 死んだらどうなるのか?
この種の問いに対しては、科学は一切答えません。科学は宗教とは大きく異なり、証明できないことに対しては「管轄外だ」と言って一切言及しない無口な存在なのです。

ですが逆に言えば、科学は信仰やイデオロギーを問わず誰にでも証明できるが故に、(ほぼ)全ての人から信じられているのですよ。
預言者の言葉や宗教の経典はそれが正しいかどうかを誰も証明できないので、そこが科学のスタンスとの大きな違いなのです。
 
さて、では思考実験のテーマに戻ります。
「もし異なる一神教の宗教を信じる者同士に同じ信仰を持たせようとしたら、その信仰は何をベースにしている物が適しているでしょうか?」
でしたね。

上記の理由より、その一つは”科学をベースにしたもの”だと言えると思います。科学が信仰になりうるポテンシャルを持っているかどうかは置いておいて、もしも科学にその力が有るのならば条件的に考えて最有力だと言えるはずです。
と言うよりも、それ以外に果たして何かあるでしょうか?
 
一つ言えることはトップページに書いたとおり、今までの科学は便利な道具を作るためだけに使われてきました。それを信仰のような人間の本質的な部分に影響を与えるものとして使おうとは、誰も考えなかったのです。
ですがここまで科学技術が発展してきたならば、少しは科学にその責務を負わせてみるのも面白いでしょう。

スマホに象徴されるように、科学は十分に便利な道具を作ってきました。そしてそれが社会を合理化させ、人々に多くの暇な時間を与えました。やがて科学は人々を労働からも解放することでしょう。
労働からの解放は学校からの解放、教育からの解放を意味し、そうなれば人は生まれてから死ぬまでずっと自由時間のようなものです。

さて、では有り余った暇な時間に我々は一体、何をするべきなのでしょうか?
科学よ、あなたにはそれに答える義務があるのです!

 
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