なぜ “信仰” なのか?


さて、プロジェクトの内容を読んで、ここで皆さんはきっと疑問を持つことでしょう。
「科学を基礎としているのに、なぜ“理論”と言わずに“信仰”と言うのか?」と。
更に言えば、「科学と信仰という言葉は、相反するのではないか?」と。

物理の世界には“理論”と名前が付く物が数多くありますね。
相対性理論、標準理論、大統一理論、超弦理論、ビッグバン理論、M理論など、数限りなくあります。
もちろん証明されている物だけでなく中にはまだ証明されていない理論も多くありますが、たとえ証明されていないとしても”ビックバン信仰”や“超弦信仰”とは言いませんね(笑)。

物理の世界には物理のルールに則った思考の進め方があり、実験の仕方があり、そして証明されたかどうかの基準があるのです。
これはとても厳格なルールであり、曖昧な部分がありません。そしてそのルールに則っていれば、“理論”と呼ぶことが出来るわけです。
確かに人間の直感や感情が新しい理論のきっかけになることもありますが、それだけでは決して理論になることは出来ません。
時々ネットの中などに「独自の超統一理論を作った」などと言う人が居ますが、厳格な数式が無い時点で理論はおろか、仮説にもなりません。それは単なる”アイディア”に過ぎないわけです。

有名な話で言えば、アインシュタインの一般相対性理論だって発表当時からとても完成された綺麗な理論でしたが、それだけでは単なる仮説でした。
ですが後に日食時に、太陽の後ろにある星が太陽の重力によって光が曲げられたためにズレた位置に観測され、その位置が正確に一般相対性理論の計算通りだったことが実験結果として得られたので、ようやく正しい理論だと認められたのです。

ですが、この世界は何からできているのかに書いた超弦理論の様に、たとえそれが正しくても正しいことを証明するのが難しく、同様に間違っていたとしても間違っていることも証明することが困難な理論が現代では多くあります。
これは昔の物理学と違い、最新の物理理論は目に見えない世界を扱ったものが多いためです。

これらは「何を持って正しいと証明されたことになるのか」の判断が極めて難しいので、どこで折り合いを付けるのかが昔と変わってきていることも確かです。
もしかしたら、殆どの物理学者らが「どう考えても他に解釈のしようがない」と考えるような実験による間接証明を行うことが、これからのトレンドになるかもしれません。
ですが私は敢えて、科学の原理原則にこだわりたいと考えます。つまり「証明できないものは、あくまで仮説である」と。

そして私が考えているプロジェクトについては、恐らく科学のルールに則った完全な証明は出来ません。不完全性定理に縛られた我々には、おそらく原理的に証明は不可だと考えているからです。
なので最終的、且つ究極的には「その仮説を信じるかどうか」という話になるはずです。
よってこれは、“理論”と言うよりも“信仰”と言った方が謙虚だし、しっくり来ると私は考えました。

“信仰”というとこれまた日本では宗教を思い浮かべる人が多いと思いますが、私が考えている物はそれとは全く毛色が異なるはずです。信仰はなにも宗教だけの専売特許ではありません。

論理的に考えた時に「明らかにそう考えるのが自然であり、他に解釈のしようがない」

殆どの人がそう思う場所が私の描くゴールであり、これは科学的な証明とは多少異なります。

以上がプロジェクトにて“信仰”という言葉を使うことにした理由です。


戻る        トップページ