物質が心を作っているのか、心が物質を作っているのか


さて、心という概念は定義が難しいので、ここでは心を人間の“意識”と定義しましょう。
意識は意思とも言えるし、自我とも言えるでしょう。もし将来、脳をコンピューターにアップロード出来るようになったら、そのアップロードする本体でしょうか。
もしも人が生まれ変わるならば、その生まれ変わる本体のことでしょう。或いは他人と体が入れ替わる漫画がたくさんありますが、その入れ替わる本体と言えば分かりやすいですね。

ちなみに仏教などではそれをアートマンと言ったりしますが、ここでの心はそういった意味です。
つまりここで書く心は、記憶や感情などは除く、ということです。

さて、古典物理学の考え方では、心は脳で生まれているとされています。そして脳は脳細胞で出来ていますね。
脳細胞、ニューロンの電気のやり取りや物質のやり取りによって心が生まれているというのが古典物理学的な考え方です。
おそらく殆どの人の理解はこの様なものでしょう。

そして脳細胞は細かくたどっていけば原子から出来ているし、電気信号も細かくたどれば電子のやり取りです。
ここまでが古典物理学の説明です。
しかしながら20世紀初めに量子力学が誕生してからは、もっと細かいことが解ってきました。
ちなみに量子力学を考慮した物理学のことを現代物理学と言います。

そして現代物理学によると、この世界は何からできているのかに書いたとおり、原子も電子も全ては”超ひも”から構成されているとしています。でもその”ひも”はとても小さい上に、11次元などという訳の分からない数学的な概念でした。
でもその”ひも”が存在していなければ、電子も原子も、つまり脳も存在していないことになりますね。
よって原子や脳は存在しているように見えますが、「本当に実在するのか?」と聞かれるとかなり難しいのですよ。

では心はどうでしょう?
心は見たり触ったり出来ませんが、少なくとも自分の心は存在していると考えますよね?
だって今、この文章を読んでいるのですから(笑)。
実はこの考え方は、特に新しいものでもなければ、量子力学以降のものでもありません。

「我思う故に我あり」

多くの人は、この言葉を聞いたことが有ると思います。
デカルトという有名な哲学者&数学者の言葉ですね。

難しい話は置いておいてこの言葉を簡単に言えば、デカルトは「自分が認識している物全ての存在を疑ってみても、どうしても存在していると認めざるを得ないものが有る。それが、そんな事を考えている自分自身の心である」と言ったのですよ。
これは1600年代の話で、もちろんその頃には量子力学はおろか、原子の存在さえも知られていなかったでしょう。脳の仕組みだって未知だったはずです。
そんな時代から見える物の存在を疑うという考え方はあったみたいですね。
ちなみに同じ様な事を考えていた人はずっと昔の東洋にも居ました。皆さんご存知の、”釈迦”です。

話を戻しましょう。デカルトや釈迦の時代には量子力学なんてものは知られていなかったので、”完全な論理の組み立てだけ”でその様な考えに至ったのだと思いますが、一般人が理解することは極めて困難だったことが予測されます。
ですが量子力学やその多くの実験は、物質が心を作っているのではなく、心が物質を作っているということを示唆しているのです。
これは純粋な物理学の実験なので、その気になれば誰でも再現可能です。

量子力学の中身は極めて難解なので、ここではかなり端折って結果だけを書きますね。(本格的に学びたい方は量子力学の本を読むことをお勧めします。ちなみに大学の物理学科に行っても、恐らく数式の計算演習ばっかりで、量子力学の一番肝心な知りたい部分は習わないと思います)

一言でいうと、量子力学は人間が観測するまでは「あらゆる物質の状態は決まっていない」としています。これは主に素粒子のような小さな物質のケースで顕著に見られる特徴なのですが、日常的な大きさの物質であっても厳密にはそうなのです。
ここで言う状態が決まっていないとは、物理的に言えば物体の位置と運動量が決まっていないとなります。運動量は速度と質量を掛けたものなので、要するに場所と速度が決まっていないのですよ。

「そんなバカな」

そう思った人も多いでしょう。観測していない時は単に分からないだけであって、決まってはいるだろう、と。
そう考えた人たちの中の一人がアインシュタインでした。
アインシュタインはそんな量子力学を批判してこう言ったそうです。

「月は私が見ていない時には、そこに無いというのか?」

しかしながらその答えは、イエスなのです。
高校時代の私も量子力学が言っていることが全く理解できず、アインシュタインと同じ考え方でした。
私は当時の日記にこんな事を書いています。

「月を見る、ということは僕の脳の中で決まったはずだ。僕の脳の中の出来事と、40万km離れた月との間に因果関係など有るはずがない」

と。
更には「もしもサルが月を見てたら月はそこに有るのか?」「人間の意識をゆっくりと失わせていったら、どこから月がなくなるのか?」とも書いていました。
しかしこれは物質が心を生んでいるという、唯物論的な考え方だったからに他なりません。

月を始め、物質を観測するかどうかを決めるのは人間の意志です。よって人間の意志、つまり心が物質の状態を決めている。
別の言い方をすれば、人間の心が物質を存在たらしめている、と言ってもそれほど間違ってはいないでしょう。
釈迦やデカルトが言ったことは、現代風に言うとこういう事だと私は解釈しています。

ここで一つ重要なことを言っておきます。
確かに人間の心には物質の状態を決める能力があるようですが、その中身までは決められません
月がどこに有るか、つまり物質の位置と速度の具体的な内容を決めることは出来ないのです。それが出来たらエスパーですから(笑)。

時々この事実を根拠にして“強い人間原理”を、「人間の意志がこの宇宙を作った」の様に解釈をする人がいますね。よって、この宇宙の創造主は実は人間ではないか、と言った解釈です。
ですが人間の意志に出来ることは、例えるなら「回っているルーレットを止めることだけ」なのです。
その“出る目”は決められませんし、出る目やルーレット自体を創造したり設計することは出来ないのですよ。
あくまで決められた選択肢の中から無作為に、別の言い方をすれば”ランダムに”決めるだけなので、そこは誤解のないように。

ではこれらの内容はどのように決まるのかと言うと、まるでサイコロを降るように確率的に、偶然のように決まります。ルーレットの例ならば、まさにルーレットの決まり方そのままです。
アインシュタインはこの結果についても、

「神はサイコロ遊びを好まない」


と言って反対していました。
アインシュタインは死ぬまで量子力学を完全には受け入れられなかったみたいですが、後に行われた数多くの実験でアインシュタインが間違っていて量子力学が全面的に正しいことが証明されています。

物質は11次元の小さい(プランク長程度)”ひも”の集まりという概念なので存在しているかどうかわからないが、デカルトの言う様に心は存在している。
そして心が全ての物質を我々が認識(観測)している状態にしている。よって心が無ければ、我々が認識しているような物質も無い。
よって言い方を変えれば、心が物質を作っていると言えなくもない。


これが現代物理学に基づいた私の結論です。

余談ですが、これらの事実は人間が従来の常識に基づいて感覚的に受け入れるのは極めて困難です。人によってはさぞかし気分が悪くなることでしょう。
実際に量子力学を構築した多くの人々も困惑していたようです。

例えば、量子力学の計算で最も良く使用される方程式を発見したシュレディンガーは、自らの発見によってノーベル物理学賞を受賞するも、量子力学の繰り出すあまりに不可思議な世界に嫌気が差して「物理学などやるんじゃなかった」と言い残して、生物学者に転向してしまいました。
また同様に量子力学の構築に大きな役割を果たし、経路積分などでノーベル物理学賞を受賞しているファインマンは、「量子力学を理解している人など世界中に一人も居ないだろう」と言っています。
トッププロの物理学者でさえもこう言っているのですから、普通の人ならば気持ち悪くなるのが理解しかけている証拠なのかもしれませんね。

後に詳しく書きますが、量子力学を誰もが納得行くように解釈することは可能だと私は考えています。
ただしそれには極めて新しい概念の導入が必要なのです。

楽しみにしていて下さいね。


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