行くところまで行くのでしょう


最近はニュースを見ていると、頭がクラクラすることが多いと感じるのは私だけでしょうか?

その理由を一言で言えば「そんなことをわざわざテレビのニュースでやるのか?」といったものが多すぎるからです。
いいえ、ニュースでやるだけでなく「そんなことで警察が逮捕するのか?」と感じることもとても多いと感じます。

これをコンプラ社会というのかポリコレ社会というのかは分かりませんが、この風潮は一体どこまで行くのでしょうか?
日本を「不快を感じる人が1人も居なくなる」ような、無菌の国にしたいのでしょうか?

そんな事を最近は良く思うのですが、今回はそれらの中から特にひっくり返るほど驚いたニュースについて考えてみましょうか。

そのニュースとは具体的には「タクシーが道路で鳩(ハト)を跳ねて殺したと」して、運転手が逮捕された件です。
これはテレビでもかなり報道されていたので皆さんも知っていると思います。私はこのニュースを見たときに、はじめは冗談かと思いました。
だってアナウンサーが真面目な顔で「跳ねられた鳩は獣医によって司法解剖され、死因は外傷性ショック死とされた」と言うんですから……。

「ん? これってドッキリ?」 それとも新しい「笑ってはいけない」シリーズ?
これが私の率直な感想でした。

まあ報道によるとタクシーは急加速をして故意に鳩を跳ねようとした疑いがあるだの、スピード違反をしていたのではないかといった話もありますが、例えそうだったとしても逮捕してテレビの全国ニュースで何度も報道する様な話なのでしょうか?
ええ、ウクライナやパレスチナでは毎日子どもを含む人間が殺されているというのに、日本では鳩ですよ?

少し前にも「飼っている猫を風呂で泳がせた男性が逮捕された」ような事件もありましたね。
少なくともこの時に私が見たニュースで言っていたのは「猫は水が嫌いなのに風呂で泳がせるなど動物虐待だ」でした。
この容疑者も上記のタクシー運転手と同様に、ニュースでは実名報道もされていました。

……。

今回は動物の命やその扱いについてに話題を絞りますが、皆さんはこれらのニュースについてどう思いましたか?
少なくとも私が子どもの頃や若い頃にはこんな事はニュースになりませんでした。

因みに私が中学生の頃にはカエル(生徒がそこら辺で取ってくる)の解剖も理科の授業でやったし、沖縄ではハブ対マングースの対決をしていたし、四国では闘犬をしていたし、日光猿軍団による猿芸もありました。

またスペインでは闘牛が人気で、バルセロナオリンピックの時にはマタドールという言葉が流行ったほどです。
ですが今となってこれらは全て動物虐待ということで廃止されたか、廃止の方向に向かっていますね。

ではここで私から一つ問いかけます。
この理屈で行くと競馬はどうして廃止にならないのですか? だって人が馬の尻をムチでバシバシと叩いて無理やり走らせるのですから。これだって現代の基準で言えば立派な動物虐待ではないのですか?

その他にもブラックバスのような魚釣りだって針で魚の口をぶっ刺して釣り上げるのですから、たとえその後で放流したって虐待ですよね?
もし人間以外の生物に対して人間と同じ基準で見るならば、そこら中虐待だらけです。

そもそも我々は肉や魚を食べる時点で動物を殺しています。え?食べるためなら殺生も許されるって?
何となくそんな理屈が最も市民権を得ている雰囲気を感じますが、食べるかどうかは人間側の都合であって、殺される側からしたらその後で食べられようがそうでなかろうが何も変わりません。

そもそも牛肉や豚肉、鶏肉を食べなくても人は生きることが出来ます。
では皆そろってビーガンや菜食主義者にでもなるんですか?
或いはその部分に矛盾は無いとして、見ないことにするのですか?


生物を殺すことについての考察:


人間以外の生物を殺すことについて法的に有罪にするとなると、具体的にどこまでの生物を殺してはいけないのですか? 例えば哺乳類であるネズミはどうでしょう?

上記の鳩の件は鳥獣保護法という法律違反なんだそうですが、例えば「は虫類」や「両生類」は殺してはいけない生物に含めるべきなのでしょうか?
因みに昔は解剖されるために殺されていたカエルは両生類ですよ。では昆虫は?

鳥や哺乳類は殺してはいけないけど「は虫類や昆虫は殺しても良い」という理屈はどうやっても見つからないはずです。
だって

奪っても良い命の基準の線を、どんな理屈で、どこに引くのですか?

またその線の場所は誰が決めるのですか?

この理屈で行くと、最終的にはゴキブリも殺したら逮捕されることになるでしょう。
ならばゴキブリホイホイなんて残酷すぎるので禁止ですね。
蚊(カ)だって叩けません。今後もし蚊を叩き潰したら獣医によって死因を特定するために司法解剖されるのでしょうか?(笑)

もう分かりますね? 殺しても良い生物といけない生物の間に線を引くとしたら、

「人間」と「それ以外」

の間しか有り得ないのですよ。
因みに昔は他人のペットを故意に殺しても単なる「器物破損罪」でした。法的に動物は物と同じだったわけです。

もちろん不必要に生物を殺すことに対して個人的に嫌悪感を持ったり反発する感情を持つことは正常だし    自由です。昔だってそんな事をする人は周りから白い目で見られましたし、それが子どもだったら親や教師に注意されたりもしました。

但し

それを国家が法制化して逮捕までするとなると話は全く別

です。

そもそもこの様に極端に動物の命や扱いに気をかけるのは、社会に余裕がある時であるはずです。だから先述のウクライナやパレスチナではそんな気遣いは出来ませんよね? その他にも飢えに苦しむ国だってそうでしょう。

日本でも戦争中には誰も動物の命など気にしなかったし、実際に空襲により猛獣が脱走して人を襲うことを防ぐために、戦争中には上野動物園の動物が殺されたりもしました。この話は有名であり、特に象を餓死させた件は小説や映画にもなりましたね。

ですが今の日本の社会にそれ程の余裕があるのでしょうか? 例えば虐待されたり貧困だったりという理由で苦しんでいる人間の子どもの数は昔よりも少なくなっているのですか? ええ、動物の扱いに皆の意識が行くほどに……。
少なくとも私にはそうは思えません。

ではどうしてこの様な現象が起きるのでしょうか?

この動物の命を大切にするムーブは日本に限ったことではありませんね。例えば毛皮のコートへの反対運動や捕鯨反対運動などは、元々は欧米から始まっているのではないでしょうか?

これから人間は他の生物たちとどのように付き合っていくのでしょうか?
最終的には食料としても利用しなくなるのでしょうか?
DaiGo氏の「ホームレスの命は猫以下だ」という言葉も実はそれ程世論からズレてはいなかったのでしょうか?

いずれにせよ、この流れは当分止まることはないと思われます。つまり、行くところまで行くのでしょうね。

この鳩を跳ねたタクシー運転手が逮捕されて社会的に抹殺された件は、一つの前例を作ってしまいました。
つまり今後、全てのドライバーは鳩などの鳥を跳ねないよう気をつけるようになるはずです。
つまり今後は鳥を避けるために急ブレーキを踏んで後続車に追突されたり、鳥を避けるために急ハンドルを切って事故を起こす人が出てくる事が容易に想像出来ますね。
その中にはきっと亡くなる人や怪我をする人も出てくるはずです。でもそれは現代の価値基準では人間が受け入れなければならない副作用なんでしょうね。

それにしても一体どの場所で人は「ちょっと待てよ? 皆おかしくないか?」と立ち止まるのでしょうか?

そしていつかまた、元の行き過ぎていない社会に戻っていくのだと思います。そしてその時代から現代を振り返るとたいそう滑稽に見えるはずです。徳川綱吉の「生類憐れみの令」がそうであったように。


さて、このコンプラというかポリコレというか、何となくそれらとも違う精神を感じますが、とにかくこの流れについて皆さんはどう思いますか?

良ければご意見、ご感想を下さい。


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