キリスト教の原罪の別解釈


始めに断っておきますが、私はこの仮説を特に信じているわけでも支持しているわけでもありません。ただ、メタフェイスからはこんな仮説も導ける、というお話です。
なので解釈の是非については読者の皆さんにお任せします。

キリスト教の原罪とは? その1 に書いたとおり、キリスト教には「全ての人は生まれながらにして罪を背負っている」という考え方がありましたね。いわゆる「原罪」って奴です。今回の内容はVR解釈を使ったこの原罪についての別解釈です。

以前に書いたゲームの初期設定仮説だと、そもそも「我々がどうしてこのゲームをやることになったのか」の説明がつきません。つまりゲームを行う理由については全く不明でした。
今回は論理的にそれらをクリアすることだけを考えた仮説ですので宜しくです。


もしゲームの初期設定仮説が正しいとすると説明がこの宇宙の中だけで完結してしまうし、そもそもこのゲームが我々にとってキツすぎる(辛すぎる)理由の説明が出来ませんでした。

因みに釈迦はこの世界に生まれてくること自体、そして生きること自体が「苦」であると言ったそうですが、確かに歴史を見ればそう言うに相応しいほどに、昔の人たちは辛いことや苦しいことが現代よりも圧倒的に多かったことが容易に想像出来るでしょう。(例えば奴隷になったり虐殺されたり拷問されたり、餓死したり凍死したり疫病で苦しんで死んだり……)
いいえ、現代に於いても苦しみを抱える人はたくさん居ますね。皆言わないだけです。

そもそも我々はどうしてこんなにも苦しいゲームをやっているのでしょうか? 

これは自分の意志なのでしょうか?

そこで考えられるのが「この世界」という名のゲームは

「VRを使った刑罰である」

という仮説です。
つまりメタ世界にて罪を犯した人が罰としてこのゲームの世界に送られた、別の言い方をすれば強制的にゲームをさせられているという解釈です。
実はこの仮説は本サイトにも公開しているVR刑の小説が布石になっているのですよ。(私の書いた小説はいつか必ず伏線回収されます。つまり無意味なものは書いていません)

つまりこの世界に居る我々は、すべからくメタ世界に於ける罪人だという仮説です。
そして罰として刑務所に行く代わりに現実と区別がつかない苦しいVRのゲームをプレイさせられていると。

もしそうだとすると、キリスト教の言う原罪とは「メタ世界での罪」ということになりますね。
また仏教の言う前世とは実はメタ世界のことであり、前世の罪(カルマ)とはメタ世界での罪のことでしょうか。そして釈迦が言った「生まれること自体が苦である」という言葉は、この世界が刑罰であると解釈すると腑に落ちますし、キリスト教で言うところの楽園(エデンの園)から追い出されて来たこの苦しい世界とは、メタ世界に於ける刑罰を受ける場所であると解釈するとしっくり来るでしょう。

具体的にキリスト教の言葉を我々に分かりやすい言葉で述べるならば「禁断の果実を食べたこと」はメタ世界で犯した罪のメタファーであり、「神の怒りに触れる」とは裁判官から有罪判決を受けたようなイメージでしょうか。

そして何れの宗教もこの発想を当時の人らにわかりやすい表現で説いたとすると、とても辻褄が合いますね。

つまり釈迦もキリストも、もしかしたらメタ世界の存在を知っていたのかも知れません。
そしてキリスト教の言葉で言うなら「神の許しを得ること」、仏教の言葉で言うなら「輪廻から解脱して涅槃に入ること」がこの刑罰の終了地点なのかも知れません。

因みに仏教では死後に輪廻して生まれ変わることは「苦」だとしていますね。輪廻を現代の我々にわかりやすいように例えるなら、刑期を全うせずに脱獄するとまた刑務所に戻されるように、刑を終えずに死ぬと再びこの世界に生を受けてしまうと考えると辻褄が合います。つまり生まれ変わらなくなった地点、輪廻の輪から脱した場所がメタ世界に於いて刑を全うした場所となるでしょう。(仏教の解釈についてはまた改めて……)

そしてその終了地点こそが私の言葉で言うところの、「ゲームクリアの場所」なのかも知れないと考えています。
この世界がゴールに達する、つまり私がゲームクリアとしている「全ての人が最大限に幸福になる世界」になると皆が幸福なので刑罰を受けるキャラクターが存在しないため、刑務所としての機能が果たせなくなります。そうなれば自動的に全ての人類は刑を全うし、罪から解放されたことになるでしょう。

そして人類をそのゴールに導く人物こそが真の意味で「救世主」となるはずです。

つまりこの時にはじめて人はキリスト教的に言えば再び神の元に戻れるし、仏教的に言えば涅槃に入れると。また同じく私の言葉で言うなら「VRゴーグルを外されて、再び付けられることなくメタ世界の住人に戻れる」となるでしょう。

そしてその状態を現代の言葉でわかりやすく例えるなら、「刑期を全うして罪を償った状態」のことを指すのでしょう。


さて、既に察した人も居るかも知れませんが、この解釈は気持ちが悪いほどエレガントにこの世界と原罪の関係を説明出来ます。
この解釈はもしかすると論理的な矛盾を生まない唯一のものかもしれませんが、先述の通り私はこの解釈があまり好きではありません。

そもそもメタ世界での罪を問うなど前世の罪を問うのと何ら変わらないレベルの発想なので、きっと不幸な境遇に生まれた人に対して非論理的な差別を生むことになるからです。
なぜなら同じ刑務所内でも罪によって刑期が異なるように、メタ世界での罪のレベルに応じてこの世界で誰に生まれるかが決まるという発想にやがて行き着くことが明白なので。

また原罪という考え方自体に対しても、生まれたての赤ん坊にも先祖(アダムとイブ)の罪があるという理屈は、何となく戦前戦中の先祖の罪が我々にもあるから償い続けろと言っている人と思考が似ている気がします。

そして何よりも私がこの解釈がしっくりこない理由は、この世界は確かに辛いことも多くありますが、刑罰にしては得られる喜びが大きすぎると思うからです。
まあ、喜びの件についてはこの世界でそれを得る方法を含めて今後詳しく書いていくとしましょう。


これらのことから、私はよりポップなゲームの初期設定仮説の方が好きですかね……。

さて、皆さんはどちらの解釈が好きですか?
またはこれら以外の上手な説明がありますか?


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