何かを選ぶことは何かを諦めることなのか


「複数のことをやり遂げるには、人生はあまりに短い」

これが大人になった私の結論です。
これを一般に「何かを選ぶということは何かを諦めることだ」、又は「何かを選ぶということは何かを捨てることだ」と言うのでしょう。
“諦める”や“捨てる”という表現が適切かどうかは置いておいて、何かを選ぶとそれと排他的な存在である何かを結果的に選ばないことになることが多いのも、事実です。
 
十代の頃に描いていた通りの人生にならないのはなぜか に書いたように、私自身の今までの人生も10代の頃に予定したとおりには行きませんでした。
私が10代の頃の人生プランでは、本当は大学院まで行く予定だったし、尊敬する物理学者が居る海外の大学に留学する予定でした。
そしてその後に超統一理論の研究に携わり、物理学を極めたと自分で確信してからプロジェクトを始めようと思っていました。
しかしながら人生はなかなか予定通りには行かず、“予期せぬ出来事”というのが往々にして起きる物です。
 
で、私が何が言いたいのかって?
それはたとえ経路が予定通りに行かなかったとしても、決して目的地を変えてはいけないと言うことです。

例えばプロ野球選手になることが本来の目的だとしたら、甲子園に出て活躍できなくてもプロになれれば結果的にOKですよね?
逆に、、、です。高校時代にオーバーワークで肩を壊してプロ野球選手になれなかったら、たとえ甲子園に出ても目的は達成できていません。
こういう例を一般に“本末転倒”というわけです。しかしながら実際には、経路にこだわるあまりそこで止まってしまったり、経路の途中で満足して目的地を目指すのを止めてしまう人がどれほど多いことか。

もしも自分の計画通りの経路に入れなかったなら、残りのリソース(時間やお金など)を計算して自分が生きている内にどうやったら目的地にたどり着けるのか、そのための新しい経路を考える方向に思考を変えなければなりません。

確かに私は留学は出来なかったし大学院にも行けていませんが、それらはあくまで手段であって目的ではないので、途中でスパッと経路を変更しました。そして予定とは別の道を通ることで、代わりに色々なものを見ることも出来ました。
そしてそれらが現在の私の血肉になっていることもまた確かなのです。
結局のところ経路の正解なんて、歩んでいるときには良く判らないものなのかもしれませんね。
 
もちろん、途中で目的地を変えることが間違っているわけではありません。
その場所がもし、あなたが論理的に辿り着いた結論ならば後悔しないかもしれません。ですがその理由が“何となく”であったり、死ぬ前に後悔することは全世界で同じ に書いた恒常性維持機能である場合には後悔することが多いことも付け加えておきましょう。

最後に、もちろん目的地を決める生き方だけが正しいわけではありません。何も選ばず”成り行き任せ”に生きるのだってアリだし、また何かを選んだ人をサポートする生き方だって満足度が高い事が知られています。

”自分がどのタイプなのか”を知ることも、後悔しないために重要なのかもしれませんね。


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