私は何者なのか


アンケートをくださった皆様、ありがとうございました。本当にモチベーションになります。
頂いたご意見、ご要望については今後の記事に生かしていきたいと思います。
(引き続きアンケートは募集していますので、宜しければ書いてくださいね)

またメタフェイスプロジェクトについても今のペースで概ね問題はなさそうなので、このまま次に進みたいと思います。

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ではメタフェイスについて本格的に深入りした内容を書く前に、久しぶりに1つ自分語りを挟もうと思います。
まあ、小休止ですね。

ここまで読み進めてきた方の何割かはきっとこんな疑問を持っている事と思われます。
それは私に対して、

「どうしてこんな事を考え続けてきたの?」「そのモチベーションは何?」


といった事です。
また、

「あなたは一体何者なの?」

といったご質問もよく頂きます。

しかしながら後者の質問に対して答える事にはいつも戸惑ってしまうのです。なぜなら私は何者でもないからです。
もし私に物理学者や哲学者など何らかの肩書きがあればカッコイイのかもしれませんが、それらは私にはありません。
更に言うなら、私には特別に与えられた才能があるとも思っていません。
それどころか、むしろ紙に書かれた私の経歴を現代の価値観で見たなら、きっと赤点だと思います(笑)。

何の肩書きもネームバリューもない私が考えたプロジェクトやアイディアに対して、多くの人に興味を持って頂く方法は極めて限られていると思っています。
そしてその方法の一つとは前者の質問にも絡んでくる事ですが、自分のモチベーションを語る事で“自分を完全にさらけ出すこと”だと思います。

まあ私には自分の人生に於いて後ろめいた事が一つもないので、自分をさらけ出す事自体についてはそれ程抵抗はないのですが、逆に聞かされた方がドン引きしたりリアクションに困ったりする可能性があると思って今までは控えてきました。それはネットでという意味だけではなく、例えば友人らに対しても、です。

なのでこの先に進む前に一つ目の質問に答えるものとして、また私の半生談として理屈ではなく、とてもヒューマンな部分を書いてみようと思います。今回書く内容は主に「いつか書く」と言った“ある日。”に起きた事についてです。
(興味がない方はここは読み飛ばして頂いて結構です)


”ある日。”に書いたとおり、15歳までの私はごく普通の少年でした。
持っていた価値観としても将来は一流大学の理工学部に行き、その後はIBMの様な大企業でコンピューターエンジニアになると決めていました。
その理由だって小学生時代からコンピュータープログラミングに慣れ親しいんでいた事もありましたが、当時、コンピューターは将来性のある未来の産業とされていたから、程度でした。
なのでそこで好きなコンピューターの仕事をし、高い給料を貰って結婚して子どもを作って庭付きの家を買って幸せに暮らしていこうという、まあ、当時の平均的な15歳が思い描くであろう理想そのままの価値観でした。
しかしながらこの”ある日。”を境に私の価値観は大きく変わりました。

時は1988年のこと。日本はバブル経済を迎えて絶好調の時期でした。
もしこの出来事がなければきっと私は他の同級生のような普通の会社員のエンジニアとして人生を送り、そして終えていたことでしょう。
さすれば“進撃の巨人”じゃありませんが、今頃は結婚もして成人した子どもの二人程も居たかもしれません。そして家族のために仕事に励み、リタイア後は孫の顔を見るのを楽しみに待つような、我々の世代に於いてはごく普通の人生を送っていた可能性が高かったことでしょう。

ですがこの日をきっかけに私の人生の方向は大きく変わることとなりました。
とは言っても、その時はまだ15歳だったのでそれからの人生の方が遙かに長いんですけどね(笑)。
この件についてはどの程度詳しく書くかを迷いましたが、何かの役に立つ人が居る可能性があるかと考え、また私自身を理解して頂くきっかけになるかもしれないと考え、少し詳しく書こうと思います。
上記の通り、やはり本気で人に何かを伝えようと思うのなら、まずは自分をさらけ出す事が必要不可欠なのではないかと最近強く思う事も理由であります。
またこれらのバックグラウンドを通じて私のガチさ、そしてパッションが少しでも伝わればと思います。

具体的に15歳のその日とは、高校受験を間近に控えた中学三年生の1月のことでした。
先述の通り幸福神話を信じていた私は、中学に入ってすぐに親に頼んで塾に通わせてもらい、真面目に勉強をしていました。
小学生までは勉強などしたことがなく凡庸な成績だった私でしたが、中学に入ってから成績は学校でもトップレベルになることが出来ました。そして学区内で一番にして県内でも有数の進学校に行きたかったのですが、上には上が居る物で残念ながら学校の内申書の点数が足りずに担任の先生から猛反対を食らい、結局、二番目の高校を受験することに決めたのです。

”ある日。”とはそんな受験の直前である冬休みの出来事でした。
冬休みには学校から書き初め大会のための書道の宿題が出ていました。私は最後に書き初め大会で金賞でも取って、中学生活は終わりだなと考えていました。受験予定の二番目の高校は単願で今更勉強などしなくても楽に合格できることが判っていたからです。

トップの高校には行けなかったけど、社会に出てから問われるのは最終学歴だから大学受験で巻き返してやれば良い。ならば中学生活の有終の美を飾ろうと思って一日中、夜までずっと書道に没頭しました。そしてちょうど最後に会心の作が書けた時に、親に夕食を食べろと言われました。

私は「少しだけ休ませて」と言ってソファーに座って目を瞑りました。
もう残されたイベントは本番の高校受験だけ。とは言っても準備は万端だし、そもそもこっちの高校は内申書の点数が十分なのでまず落ちる事はありません。
これでやっと少し休めます。ホッとした私は今までずっと入っていたスイッチが完全に切れました。後から思えば長い間、ずっと変性意識状態に入っていたのでしょう。ええ、ある意味で受験生となってから一年近く。

その時でした。私はふと変な気分になって目を開けました。「気が抜けたのかな?」と思いましたが、変な気分はどんどん酷くなっていきました。まるで床が消えて底のない暗闇に落ちていく様な気分です。
やがて脈拍が上がり呼吸が荒くなり冷や汗があふれ出しました。ですがそんなことは大した問題ではありません。

私は今までに感じたことのない、形容することすら出来ない感覚に陥ったのです。
あえて言葉で表わすならば、目に見える景色の認識が急に変わってしまったのです。物理的に見えるものは全く同じなのに、です。
例えば皆さんが目の前の机に置かれたスマートフォンを見れば、それが”スマートフォン”だと認識することでしょう。決して“薄くて黒くて四角い物体”だという認識はしないはずです。
ですが分かりやすく言えば、私には全ての景色が“そう見えた”のですよ。

例えるならこれは原始人の認識です。原始人は当然ながらスマートフォンなど知りませんから、もし原始人にスマートフォンを見せれば「薄くて黒くて四角い物体だ」と認識することでしょう。

もちろんこの時代にスマートフォンなど存在しませんが、部屋の中のテレビを始め、とにかくあらゆる物が私にはそのように見えたのですよ。これは分かりやすく言えば、ゲシュタルト崩壊に似ていますかね。
(ゲシュタルト崩壊は普通の人でも故意に起こすことが出来ますが、お勧めしません)

その時のことは今でもとてもよく覚えています。私の頭の中をこの言葉が走りました。

「ああ、終わった」

つまり、「自分の人生はもう終わった」と思ったのですよ。たった15年を生きただけで何かとんでもない病気にかかってしまい、もう自分の人生は終わったも同然だと直感的に、且つとても強く思ったのです。

青い顔をして汗びっしょりの私を見た母が心配して「どうしたの?」と尋ねました。
「少し気分が悪い」とかろうじて話せましたが、どこかが痛いわけでも苦しいわけでもありません。こんなものはとても言葉では表せない気分なのです。

私は少しの間ソファーに寝かされました。そして少しだけ眠り、目が覚めて部屋の中を見ると、黒くて四角い物体は見慣れたテレビに戻っていました。
私は無理して夕食を食べようとしましたが、全く食欲が湧きません。
両親は「少し疲れすぎたのでは?」と言いましたが、直感的にそういったレベルのものではないことは自分で分かっていました。

この体験の記憶は決して消えることはありませんでした。それどころかこの苦しい発作のような症状は以後も時々、何の法則性もなく気まぐれに私を襲いました。
このテロリストのようにいつ襲ってくるか分からない発作に私は死ぬほど怯え、そして苦しみました。正直に言ってこの発作の苦しさは、人間に耐えられる物ではないと何度も思いました。ましてや15歳の少年には、です。

それにしても……、です。まさか

この体験が真理に繋がっている

など、当時の私は夢にも思いませんでした。
目の前の出来事に何の意味があるのか? いえ、そもそも意味なんてあるのか? 当時は何度そう思った事か。
人生というのは本当に良くわからないものです。一体何が吉と出て何が凶と出るのか、死ぬまで分かりません。

もしも私が現代の15歳の少年ならば、病院に行けば恐らく正しい診断が出ると思います。
病名はパニック障害で、いつも目にする景色が認識できなくなる症状は”離人症”といってパニック障害において良く起きる症状です。
命の危険がないことも判っているし、精神病でもありません。うつ病と同様の神経症の一つで、今では原因やメカニズムもかなり解明されています。よって現代ならば周りの理解を得ることがきっと可能でしょうし、差別や偏見もほぼ無いことでしょう。
また良く効く治療薬も存在しています。

しかし時は1988年のことです。当時は何一つ分かっていませんでした。
パニック障害なんてものは言葉すら存在しないし、うつ病という言葉さえも一般人は知りませんでした。いえ、医師であっても内科医や外科医はうつ病でさえ殆ど知らなかったと思います。
当時、一般に使われていた神経症を表わす言葉は、ノイローゼ、自律神経失調症、仮病、キチガイのいずれかでした。

いくら勉強が出来ても病気になってしまえば全て終わりです。大人達は誰もそのことを教えてくれませんでした。
そして当時の私にとって幸福神話はもう砂上の楼閣に見えました。

ですが辛かったのは将来への絶望感だけではありません。
パニック障害は症状そのものがとても苦しい病気です。もちろん人によって個人差がかなりあるようですが、私の症状は重い方でした。正に「人間に耐えられる苦痛を超えている」と思ったほどに……。

この病気の患者さんの多くは特定の場所で、例えば電車の様な乗り物だとかエレベータに乗ると発作を起こすケースが殆どでした。
しかしながら私のケースは時間も場所も問わず、つまり何の法則性も無くいつでも発作が襲ってきました。
つまりこれは、逃れる方法がない事を意味します。

乗り物の中だけならば乗り物を下りれば発作が治まるのに対し、私のケースではいつ終わるか分からないエンドレスであり、一時間以上も発作が続く事もありました。当時の私は夜から夜中にかけての就寝前に、自分の部屋で襲われる事が多かったです。
あまり病気の話を詳しくするのも話がズレそうですが、これはモチベーションを理解して貰う上では避けて通れない話なので少しだけ書いておきましょう。

この病気の発作を普通の人が分かる様に無理やり例えるならば、夜中にダムに沈められて溺れ死ぬ寸前に引き上げられて、また沈められて、を繰り返すような苦痛でした。ええ、それも一時間以上。
因みに拷問には色々な手法があるようですが、これは拷問を超えていると思いました。
この発作はあらゆる感覚の中から苦痛と恐怖だけを抽出し、それだけを限界まで増幅したような症状なのです。

そんなものが、いつ、どこで襲ってくるのか分からないのですからその不安感は想像に易いことと思います。日常生活の中でも「次はいつ来るのか」という不安でいっぱいになります。
パニック障害患者の多くがその恐怖とストレスからうつ病を患うのも頷けるというものでしょう。私も例外ではありませんでした。
そしてうつ病だって、それ自体がとても苦しい病気である事は有名ですね。

しかもです、当時はこんな病気は全く認知されていないので、周りからはひたすら“仮病扱い”されるのです。
信じられないかもしれませんが、医師でさえもそうだったのですよ。
文字通り“救いがない”とは、きっとこの様な状況を指すのだと思いました。


皆さんも少しだけ想像してみてください、その時代の15歳の少年の気分になって。
今現在は苦しいし、将来も絶望的。更に地球上の誰からも自分の苦しみは理解されず仮病扱いされるのです。

そもそも「なんでこんな思いまでして生きなければならないのか?」と考えるのも自然だと思いませんか??
もしここで生きることを選択したなら、今まで信じていた幸福神話の様な“世間の常識”の代わりに何かに掴まりたくなりませんか?
そこで私が掴まることが出来た“手すり”こそが、物理学だったのです。

“生きて物理を学ぶか、或いは死か”、という話を書いた時に「何て極端な」と思った人が殆どだったと思いますが、実はこういった事情があったのです。

釈迦は何不自由のない恵まれた環境にいながら一念発起して真理を探究する修行の旅に出たそうですが、私の場合には選択肢など無くほぼ強制的にそうなったのですよ。だからいつも“私は凡人だ”と言っています。

そして”ある日。”以来、私は好不調の波がありながらもずっと病気と付き合い続けて来ました。
でもそれがなければ私はきっと物理を学ぶ事はなかったし、真理を見つける事も、またプロジェクトを考える事もなかったでしょう。
当然ながら、本サイトも存在していません。

本当に人生とは良く分からない、不思議なものですね。

余談ですがパニック障害は現在では脳の扁桃体の誤作動だという説が強く、良く効く薬も治療法も存在しています。
思い当たる節がある方は病院(精神科や心療内科)に行けば解決する可能性が高いでしょう。逆に放っておいて長引かせるとうつ病を併発したり治りにくくなるので、早めの診療をお勧めします。

それとこれは私のエゴですが、健常者の方は出来れば彼らに優しくしてあげて欲しいと願っています。生きづらくて苦しんでいるマイノリティーはLGBTQだけではないのですよ。


さて、以上が ”ある日。”に起きた事の概要と、主に高校時代の話です。

孔子曰く、十有五にして学を志す(私は15歳のときに学問に志を立てた)

だそうですが、これらの出来事をきっかけにして私がエリートサラリーマンの道ではなく“真理の探究”を志したのは、ちょうど15歳の時でした。


これを読んだ皆さんがどう思うのかは想像もつきませんが、少しでも私のモチベーションが理解できたり、何らかの役に立ててくれる人がいればと思っています。

目の前に起きた出来事がどんなに不幸に見えても、それを単純に白黒に分ける事など出来ません。その出来事はもしかしたら、未来の重要な何かに繋がっているかも知れません。不幸な出来事も含めて色々なものが複雑に絡み合って人生を形作っているのです。
ええ、文字通りにその人の“物語”を。

もし私の仮説が正しいとしたら、この病気は確実に真理に繋がっていました。
本当にスティーブ・ジョブズが言っていたとおり、何と何が繋がっているのかは後にならないと判らないものです。


更に私の物語は大学へと続くわけですが、当然ながら順調に行く事はありませんでした(笑)。
もし要望があればまた続きを書こうと思います。大学時代は“この世界は全てフィクションだ”という真理(の仮説)に行き着いた重要な時期ですからね。
ただし、とてもヘビーな内容になります。

では長くなりましたが、モチベーションに対する問いへの回答は、取り敢えず以上にしておきましょう。


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