究極の問い(前編)


さて、あまり感想を頂けませんでしたが、時間が無いので核心部分に入って行きましょう。
(感想はいつでもお待ちしていますので宜しくです)


ある日。が来てから暫くの間、全ての洗脳が解けた代わりに私は布団に横たわりながら吐くほど悩んだと書きましたね。

細かい経緯はここでは省略しますが、私はあらゆる疑問が最終的にいくつかの疑問に収束することに気づきました。
最も身近であった“幸福神話”の洗脳が解けた私は、まず”幸福”についてから考えてみることにしました。
大人たちに尋ねても納得できる答えが得られなかったことは先述の通りです。

そして大人たちの答えは“食べ物があること”だとか、“凍死せず寒さをしのげる家があること”だとか、まあ簡単に言えば幸福とは“健康に生きていくために必要なものが揃っていること”でした。
つまり幸福とは、“生命を維持するために必要な要件を満たすだけの物を持っていること”だと。

ん?待てよ。するとつまり幸福とは、“問題なく生きていけること”なのか? 
そう思いました。

すると当然ながら次に以下の疑問が湧いてきます。その問いとはもちろん、

“では何のために生きるのか?”

です。
そしてどう思考の経路を変えても、この疑問を避けて通ることは不可能であることに気づきました。
あらゆる疑問も悩みも“生きているからこそ”生じるからです。

しかしながらこの疑問の答えは先述の通り、大人たちも知らないようでした。
すべての行動には目的が有る に書いたとおり、あらゆる動詞にはその目的が存在しています。しかしながら“生きる”というのは動詞ですが、この最も根源的な行動にだけは目的がないのですよ。
更に言うなら“生きる”という根源的な行動を止めると、その他のあらゆる目的も行動も無くなるのです。つまり全ての人間の行動は生きてこそ。まあ、当たり前と言えば当たり前なんですけどね……。

当時15歳だった私はパズルを解くような気持ちで更に思考を進めました。
当然ながら次に考えるべき事は、“死”についてでした。何故なら生きているとは“死んでいない状態”を指すからです。
そして誰もが気づいた時には既に生きていたわけだから、自分の意志で自分の生死のコントロールをする手段というなら昔から現代まで社会問題になっている“自殺”くらいでしょう。
これについてはまた何れどこかで書くことにしましょうか。

私は死から逃げるために、少しだけ思考の経路をそらしてみました。生死以前に、何故人間が存在しているのだろうと考えてみたのです。だって人間が存在していなければ自分も存在せず、こうして生きる理由を考え悩む必要もないのだから。
そもそも人間が生物として存在しているのは骨やら内臓やらが存在するからであり、それらはみな細胞から出来ています。更に細胞にはその設計図であるDNAが含まれていて、DNAは分子から出来ていますね。
当時は中学を卒業する頃でしたが学校の理科でもそれくらいは習っていました。

生きる理由が知りたくて私は生物学系(遺伝子工学系)の本をたくさん読んでみましたが、これらには生物がどのような仕組みになっているかについては詳しく書かれていましたが、何のために生物は生きているのか、そしてなぜ生物が存在しているのかについては書かれていませんでした。
これはいつものことです。当時の私は、きっとこの学問は私の求める答えをくれないと思いました。
そこで私はある時に生物学とは決別しました。

生物はその設計図であるDNAを含めて全ては分子から出来ており、分子は原子が組み合わさって出来ています。つまり原子が存在しなければ生物も人間も自分も存在していないことになりますね。
ではなぜ、原子が存在するのでしょうか??
私はその問いを「なぜ物質が存在するのか?」という問いに置き換えました。何故なら物質と呼ばれるものは全て原子から構成されているからです。
今ではその原子もいくつかの素粒子から構成されていることを知っていますが、当時の私はまだそれらについて詳しくは知りませんでした。

物質が存在しなければ生物は存在しません。つまり人間も存在しないし、幸福という概念や生きる目的という概念も存在しないことになります。
ならばこの「なぜ物質が存在するのか?」という問いこそが最終的なものでしょうか?

因みにですが、15~16歳の頃の私はそんなことを考えている自分は頭がおかしい、もっといえば頭が狂っているのだと思っていました。なので途中からは、大人に質問をすることも口にすることもしなくなりました。
ですがそんな時に読んだ一冊の本が、私に人生を変えるほどの大きな影響を与えました。それはイギリスのある著名な物理学者が書いた本で、その中には正に私が疑問に思っていることがそのまま書かれていたのです!
その時は衝撃と安堵の気持ちが混ざり合い、スッと涙が頬をつたいました。

私の疑問は大人の著名な物理学者が考えていることと同じなのだから、以後は自分の頭は狂ってなどおらず正常なのだと解釈することにしました。
それと同時に私の問いに答えうる学問は、物理学であるとことがやっと分かりました。

更にその物理学者は、“なぜ物質が存在するのか?”という疑問の上位互換の疑問として、“なぜ宇宙が存在するのか?”という疑問を書いていました。
確かに光は原子から出来ていない、つまり物質ではないし、空間だって物質ではありません。この宇宙には物質以外の物もたくさん存在しています。

もっといえば物理法則だって物質ではありません。ですがこれらのどれ一つが無くても人間は存在できていません。-> 生きていません。-> 幸福でもありません。

よって私はこの問いを“究極の問い”と名づけることにしました。
バブル経済のこの当時、“究極の”という言葉が流行語になっていたのでそれに倣っただけでしたが。

私は自分のあらゆる疑問が、結局次の4つに収束すると考えました。
それは、

・幸福とは何なのか?
・何のために人は生きるのか?
・なぜ物質が存在するのか?
・そして、なぜ宇宙が存在するのか?

です。
そしてこれらの疑問の答えが出るまでは取り敢えず生きてみようと、高校当時の私は考えました。
つまり私にとって、

生きること = これらの疑問の答えを知るために行動すること = 物理学を学ぶこと

となったのです。
私の通う高校は進学校だったので皆が大学受験をしていましたが、私には色々な学科を受験する同級生が理解できませんでした。当然ながら私は物理学科一択です。
何故かって?
論理的考えて私の取り得る選択肢は、物理学を学んで疑問の答えを探究するか、或いは死か、の二択だったからです。

正直に言いましょう。私はこれらの問い、特に“究極の問い”については寿命で死ぬまで答えに行き着くことはないだろうと考えていました。それならば自殺しない人生を送ることが可能であるだろうと。
しかしながら意外と早く、私はこれらの答えに行き着いたと思いました。
もちろんそれはまだ漠然としていたり不完全であったりする仮説レベルでしたが、私はそれが正しい答えだと直感的に思っていました。時は大学生時代、1994~95年頃の話です。

しかしながらその答えというのがあまりにぶっ飛んでいたため、もし人に話したら現代の言葉で言うなら統合失調症、当時の言葉で言うならキチガイだと思われる事間違い無しだと考え、一般には公開せず、数人の親しい友人にレポート形式に軽くまとめた文章を読ませた程度でした。
それを読んだ友人がなんて言ったかって?? 意外と好評でしたよ。続きが読みたいと言ってくれた友人もいました。

ですが、、、友人の評価は上々でしたが、当の私の頭がショートしてしました。長期間変性意識に入ってしまっていたのか、はたまたこの手のことを考えるには脳がまだ成長しきっていなかったのか、或いは人生経験の不足などの他の理由によるものなのかは分かりませんが、とにかく体調を崩しすぎて私は一旦、思考を休養することにしました。実際にドクターストップも受けました。

にしても医師が酒やタバコを禁止するのはよく聞きますが、物理を禁止って……(笑)。
まあでもその判断は今から思うと正しかったのだと思います。

さて、長くなりましたが私はこれら全ての疑問に答えることが出来るたった一つの説明があったなら、それを“この世界と宇宙の真理”と呼んで差し支えないと考えています。
他の疑問の答えは、この最も根源的な答えからきっと導くことが出来るからです。
その真理は物理学の例で言うなら超統一理論の様な存在となるでしょう。

そして当時、統合失調症を疑われると思った仮設こそが、現在は真理であると私は考えています。
もちろん長い時間を掛けて、その説明からぼやけている部分などが無くなりより洗練された仮説となっていますが、閃き自体は当時の物であり、あくまでそれがベースです。

但しその真理については、果たして他人に公開するべきかどうかを当時はとても悩みました。
内容があまりに衝撃的すぎて、下手に理解されて受け入れられたら世界がおかしくなるのではないかと考えたこともありました。
或いは、私の頭がおかしいと思われるかですが……。

ところがこの数年、私と同じ仮説を唱える人をチラホラと見かけるようになったのですよ。しかも、ネットやYouTubeで!
本当に世の中は変わった物だと思いました。ならば無名の私が同じ事を言ったところで、世界がおかしくなる事はないでしょう(笑)。

続く……。


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